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川辺に生まれて川辺で育った

私が子どもだった昭和20年代の頃は、川辺には270軒ほどの家しかありませんでした。江戸時代には、近隣の中でも大きな宿場町として栄え、輪中の町だった。明治26年の水害で輪中の堤防が壊れ大勢の人が亡くなった。そのため、その当時、川辺に住んでいた人は岡田へ移住したそうです。川辺に残る唯一の寺である源福寺の中に水害の碑が建っています。

 昭和40年代から急激に住宅が増えて、現在では1760世帯が暮らしています。今回の水害では、数軒を除いて、全ての住宅が全壊又は半壊し被災しました。

 

パンを届けたら泣いて、喜んでくれた

6日の夜中12時に岡田小学校へ行き、避難者数を確認したら400人以上が既に避難していた。分館から座布団をもってきたり、朝ご飯の買い出しをしたり、米を集めて炊き出しの準備をしたりと夜を徹して作業していました。7日の朝7時半頃にお腹がすいたので自宅に戻りました。途中、道路が20cmくらい水に浸かっているところもありましたが、川辺まで戻ると小学校の運動場はまだ浸水していなかったことを覚えています。朝食を済まして家の裏の農業用水路を見ると、水が西から東に流れていて、いつもとは様子が違っていました。「これはいかん!」と思い、近隣の兄夫婦に逃げるよう声をかけ、2階へ避難させました。そして自動車2台を土手の上に避難させ、家に戻ると家の前が10cmくらい浸かっていました。これはまずいと思い、体が不自由で避難することを拒む兄嫁を無理矢理抱えて土手へと避難しました。流れてくる水は泥水です。ビニールシートや材木などゴミも一緒に流れてくるので、その中を避難するのは大変でした。

 土手に着くと、どんどん家が浸かっていくのが見えます。「なんでこんなことになるのか」と絶望しました。7日の夜は娘のところへ避難し、翌8日の朝から岡田小に向かい、届いていたパンを15箱もらって軽トラに積み、川辺へ向かいました。何とか川辺に到着すると、急激な浸水のため、家の2階などに避難していた人に「パンがあるぞ!」と声をかけ、腰まで水に浸かりながら配りました。前日から何も食べていなかった人は泣くように喜んでくれました。

 

みんなが笑顔になれる川辺に 

川辺地区には全国から多くのボランティアが復旧、復興に尽力してくださり、被災した家屋の建替やリフォームが急ピッチで進んでいます。そうした中、川辺では自らも被災している若いお母さん達が中心になって「あるく」という組織を立ち上げ、被災者のために支援の輪を広げてくれています。本当にありがたい。まちづくり推進協議会としては、毎年行っている餅つき大会を12月に開催したところ、例年によりもたくさんの450人も参加し、水害以来の再会を喜びあいました。こんな時でも笑い声が聞こえることが本当に嬉しかった。元気をなくして下ばかり向いている人もいますが、「上を向いていこう!」、復興に向けて「笑顔でいこう」と声をかけています。

 川辺の唯一の天狗山の登山道の整備にも取り組む予定です。天狗山の上から川辺を一望し、みんなで復興を考えていきたい。みんなが笑顔で川辺に戻ってきてくれることが私の願いです。   

 

(聞き手:矢吹、石塚)

Vol.7

“上を向いていこう”川辺に住んで良かったと笑顔になる地域に

横溝 哲さん (83歳)川辺

避難先:倉敷市安江

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